Reading Page

 
イチオシ
直観的に「家族」を感じる快感
稲垣 優

「クレヨンしんちゃん」はみんなが求める家族のカタチかもしれない

 ゴールデンウイークに、映画を見に行った。久しぶりだった。ビデオで映画を見ることはあっても、映画館で映画を見るのは、2年前に見た「クレヨンしんちゃん・ヘンダーランドの冒険(確かこんなような題名だった)」以来だ。そして今回見たのは、はやり「クレヨンしんちゃん」(笑)。子どもにせがまれての善光寺参り(笑)だった。

 今回の「しんちゃん」は、温泉がテーマ。悪の組織「YUZAME」と、温泉Gメンとの戦いだ。まあ、いつものことながら、おバカなノリがうれしく、十分楽しませてくれる。

 「クレヨンしんちゃん」は、もともと『アクション』というヤング向け週刊マンガ雑誌に掲載されていた。ふわふわの線で書かれた絵は、微妙に懐古趣味をくすぐる部分があり、同時に内容に、日常的な生活感があふれているため、私はすぐにファンになった。とはいえ、マンガ雑誌で読んだのは一度か二度で、その後出されたコミック本で愛読している。現在は23巻まで出ており、このままだと「こち亀」の勢いかもしれない(笑)。

 数年前、小学生がみんな「しんちゃん」になるという現象があった。「やってみれば~」「そーともいうー」など、大人をからかった口調が異様に流行し、それを聞いた大人は皆不快に思ったものだ。かくいう私も、子どもが「父さん、仕事してみれば~」などというと「うるせい! 黙っとらんかい!」と一喝したものだった。

 原因は「クレヨンしんちゃん」のテレビアニメ化だった。ただ私としてはちょっと弱い立場にあった。というのも、このマンガのコミック本が出たとき、率先して買い、さらに子どもに読ませたのは、何を隠そう私自身だし、テレビアニメが始まったとき、率先して子どもに見せたのも、やっぱりこの父(私)だったのである。だって面白いんだもん(笑)。

 それでも「しんちゃん言葉」は、すぐに沈滞していった。今時、幼稚園児でもあの言葉を口する子どもはいない。テレビアニメは、相変わらず続いているのだが。ただ、もしかしたらアニメ制作側(あるいは原作者)が社会からの批判を真摯に受け止めて、しんちゃんに「しんちゃん言葉」を言わせないようにしているのかもしれない。最近のテレビ版を見ると、帰ってきたときに「お帰り~」と自分で言うとか、母であるみさえに「ケツデカおばば」など言うことはあっても「やってみれば~」的な言葉は少なくなったような気もする。

 さて、話は映画だ。

 今回の温泉もの(題名を忘れた)だけでなく、そのほかの劇場シリーズには、共通しているテーマがあるように、私には思えるのである。テレビアニメを見ていると、もう一つ分からないが、コミック本では、たまにこのテーマが見えることがある。そして劇場版には、概ねこのテーマが込められている気がする(ビデオでは、全部見てるので)。

 そのテーマとは「家族」なのである。

 冒頭、私が「クレヨンしんちゃん」を気に入った点の一つとして「日常的な生活感があふれている」と書いたが、これにもつながる。

 今回の温泉バージョンでは、しんちゃんの家の下に、特殊な温泉(金の魂の湯=略して、きんたまの湯)が眠っているということで、秘密組織「温泉Gメン」が採掘を始めるのだが、その際しんちゃん一家は、組織に身柄を拘束される。そしてさまざまな展開があり、結局、父であるひろしは言うのである。「家へ帰ろう」と。そして母みさえも、しんちゃんも、妹のひまわりも、すっくと立ち上がり、もしかしたら戦闘の場となっているかもしれない家へ帰ろうとするのだ。

 「クレヨンしんちゃん」シリーズでは、よく「家のローンが35年も残ってる」などの表現が、ギャグとして出てくる。だから家を守るぞ、それこそがサラリーマン父の仕事なんだというノリで笑わせてくれるのだが、今回の劇場映画では、それをもう一歩進めたカタチで見せてくれたあたりに、私は共感してしまった。

 「家族じゃないか」「家族なんだから、自分たちの家へ帰ろう」とても単純明快な発想だが、それがなぜか、脳髄を刺激してくれたのだ。いつもはケンカばっかりしている家族。お互い、言いたいことを言っている家族。でもすぐに仲直りする家族。そんなしんちゃんの家族(野原家)は、どこにでもある家族であるように思えながら、実は、あまり実在しない家族のカタチなのかもしれない。そしてこれは、日本中のみんなが求めているカタチなのかもしれないのだ。互いに言いたいことが言い合えることで、ストレスは発散されるし、家族が互いのことをよく理解することができる。そんな家族のカタチが羨望の的になるのは、当然といえば当然なのだ。

 そういう理想的(?)な野原家が「家に帰ろう」と言う。その言葉には、なんだかめちゃくちゃ説得力がある。「家族じゃないか、俺たちは」という言葉は、単なる浮ついたヒューマニズムではなく、本当の家族だからこそ言えるものとも思える。ともすれば歯が浮くような言葉だが、それが妙にマッチする。制作側としては、もしかしたら、歯の浮く言葉をギャグとしているのかもしれないが、それが逆効果(笑)となり、妙な説得力を生んでいる。

 まあ、今回の映画で「家に帰ろう」というくだりでは、ギャグ化しようとする制作側の意図は見えず、ちょっとまじめになっているという雰囲気はある。一般的に言えば、ギャグマンガでシリアスな部分を挿入すると、多くは「浮く」わけで、やるならシリアスな部分さえもちゃかす姿勢が求められるわけだが、今回の「家に帰ろう」という台詞は、ギャグの中にあって、シリアスがうまく生かされた好例と言える気がする。

 途中、悪の組織YUZAMEに捕まった野原家が、家族連帯責任的な罰ゲームを受けるシーンがあるが、ここはちょっとだけ歯の浮く雰囲気はあるものの、それでも耐えられないというものではない。たぶん今回のスタッフは、今まで底の方に流れていた「家族」というテーマに気づき、一段上に持ち上げて表現しようとしているのではないだろうか。そこが、妙に(家族持ちとしては)うれしかったのである。

 それ以外では、とにかくおバカな楽しさが随所にある。東宝怪獣映画を彷彿させる(というかそのままやんか)シーンは秀逸(笑)。もう知らない人が多いだろうが、往年の怪獣映画のシーンがうまくパロってある。さらに「怪獣大戦争」などのテーマや、ゴジラのテーマなど、東宝怪獣映画では必ず聞かれた音楽が響き渡るのもうれしい。自衛隊の戦車がゴルフ場の芝生を蹴散らすあたり、もしかしたら環境問題に一石を投じているのかと思えば「こら、芝生をあんまり汚すな」などという自衛隊隊長の言葉があったりして、なんか妙に面白いのである。

 今回の「クレしん」は、怪獣映画のパロディーだという人もいるが、私にはそうとは思えない。怪獣映画をうまくパロってるのには好感が持てるし、私は好きだ。でもそれ以上に、これだけおバカをやっていながら「家族」を見せてくれる野原家のあり方が、やっぱり私は好きだし、それこそが「クレヨンしんちゃん」の神髄のように思える。

 前々作の「ヘンダーランドの冒険」では「愛」が底に流れていた気もする。そして「家族」というテーマも併流していた。あれはあれで、面白かった。前作(題名、忘れた)では「友情」が底を流れていた気もする。とにかくスタッフの質が高いように思える。これは、日本アニメ界ならではのものなのだろうか。そして「クレしん」では、そうした、ともすると歯が浮きそうなテーマを隠しながら表現するのではなく、テーマをスタッフの多くが実感し、自分の思いとして持ちながら、映像を作っているという部分があるように思える。テーマを表現するための映像ではなく、あくまでエンターテイメントとしての「おバカ」を前面に出し、それを見せるための映画ではあることが大前提でありながら、作り手の中に、優しさ、愛、友情、家族という実はだれもが求めている感情が大きく存在し、そういう人たちが作る映像だからこそ、嫌味がなく、ストレートに見るものの心に入り込んでくるのではないかと思えるのだ。

 芸術は、感動を与えるものと言われる。しかし自分以外の者に「感動を与えよう」と意図的になると、人は感動してくれない。反対に、制作者が自分の感動を思いの丈、作品に込めると、見る人はそれを敏感に感じ取ってくれるのである。

 というわけで、今回の「イチオシ」は「クレヨンしんちゃん」の劇場版アニメ映画。今年の作品は、そろそろ劇場から姿を消すだろうから、ビデオになってから見てください。それ以外(前作以前)なら、たいていのレンタルビデオ屋にありますから見てね。

copyright : Masaru Inagaki(1999.5.14)

読みもののページ

ショートストーリーを中心に、しょーもないコラム、Mac系コンピューター関連の思いつきつぶやきなど、さまざまな「読み物」を掲載しています。
20世紀に書いたものもあり、かなり古い内容も含まれますが、以前のまま掲載しています。