その部屋は、ネコでいっぱいだった。無造作に置かれたぬいぐるみのように、そこらじゅうに「毛皮」が転がっている。ただしこの「毛皮」は動くのだ。やつらは自分の安住の地を見つけるまで移動し、そこで目を閉じる。こうして部屋は、足の踏み場さえなくなっていく。
男は大工だった。まだ見習いだが、それなりにいい筋を持っていると、棟梁に言われていた。とはいえ、彼は物づくりを趣味にしているわけではなかった。彼の心の支えは、ネコだった。
ここは、ほかの多くのアパート同様ネコは飼えない。しかし彼は飼っていた。それも大量に。ネコの鳴き声が漏れないように、音を消すための吸音材を部屋の中に張り巡らして……。
OLは、隣の部屋に住んでいた。もちろんネコの存在は知らない。もし知っていても、今の彼女にはどうでもいいことだっただろう。最近の彼女は、少々ノイローゼ気味だった。
「異変」に気づいたのは、三日前のことだった。いつものように勤め先である銀行から戻り、アパートの部屋の鍵を開けた。部屋は八畳の和室と三畳のキッチンだけ。入り口のドアを開ければ、奥まで見渡せる。独り暮らしにも慣れた彼女だったが、その日はドアを開けた瞬間、妙な気分になった。OLは「違い」に気が付いたのだ。
部屋の中に異変が起こったわけではなかった。それどころか何も変わってはいない。朝食べ残したトーストもそのままだし、しまい忘れた口紅は赤い頭を上に向けていた。机の引き出しやタンスの中、貴重品を入れたバッグなどを見たが、なんの変化もない。しかし、違うのだ。毎日慣れ親しんだ部屋の変化は、住む者にはよく分かる。ただ、どこがどう違っているのかが、住人にすら分からなかった。
何時間もかけて部屋中をひっくり返した後で、OLは、その変化を気にしないことにした。きっと疲れているんだ。このところ監査や大口客からのクレームなどで、走り回っていた。上司はいつになくピリピリしていたし、自分もいらだっていることは分かっている。だから、自室が違うものに見えてしまうのだ。そう思うことにした。実際、確認できる変化は見つからなかったのだから……。
それから三日後、帰宅したOLは、また「変化」を感じた。今度も三日前と同じように、確認できる変化はない。しかし確実に何かが変わっていた。部屋全体が発する雰囲気というか、あるいは部屋の持つ「におい」というか……。その日もOLは、部屋中をひっくり返した。しかしなくなったものはなかったし、増えたものもなかった。
翌朝、燃えるゴミの入ったビニール袋を下げて部屋から出ると、彼女の部屋から一軒おいた隣の部屋に住む女子学生と出会った。年齢が近いこともあり、二人はよく話をする。OLは、黒い袋を下に置くと、学生に話しかけた。
「なんだか変なのよ」
「え? どうしたの? あなた、今日は変よ」
「そうじゃなくて、私の部屋が変なの。実は……」
OLは、この一週間ほどの間に起きたことを話しだした。女子学生は、何度もうなずきながら真剣な目で聞いていた。
OLの話が終わると、学生が言った。
「実は私も、同じような経験をしているの。違いを感じた日はあなたと違うけど……。でも同じなの。何も変わっていないのに、なんとも言えない奇妙な変化があるってところが」
それから二人は、黙り込んでしまった。OLの頭は神秘主義に走り、部屋の中でゴーストが走り回っているのではないかと思いだした。学生はSF頭になり、ほかの惑星からの侵入者が、目に見えない形で住み着いたのではないかと考えだした。
二人の女性の部屋の間に住む男は、廊下の話し声に聞き耳を立てていた。ネコたちはいつものように寝転がっている。台所の窓を少しだけ開けると、二人の声がよく聞こえた。
OLと女子学生がゴミ袋を持って立ち去ると、男は床に転がる「毛皮」たちに話しかけた。
「そろそろ限界だよ。お前たちのために広い部屋をって思ったけど、これが限界だ。すまないが我慢しておくれ。また別の方法を考えるから」
言いながら男は、窓もドアもない東西の壁に目を向けた。隣室との仕切りの壁は、簡単な作りだった。中央の柱を切り、補強しながら少しずつずらすのは、さほど難しくはなかった。しかしもう、この「作業」もおしまいだ。両隣の住人が、部屋の変化に気づいたらしい。
男は下を見た。東西の仕切り壁の下からは、それぞれ隣室の畳が半分ほど見えていた。
読みもののページ
ショートストーリーを中心に、しょーもないコラム、Mac系コンピューター関連の思いつきつぶやきなど、さまざまな「読み物」を掲載しています。
20世紀に書いたものもあり、かなり古い内容も含まれますが、以前のまま掲載しています。
Copyright Masaru Inagaki All Rights Reserved. (Since 1998)