それは男が、北陸のある街を訪れたときのことだ。予約もなしに飛び込んだ旅館に空き部屋があったのは、今考えると不思議なことだ。それは、十二月二十四日の夜だった。
泊まった旅館には、本館と新館があった。両館は狭い道路を挟んで、向い合って建っている。男は新館の部屋へ通された。
すぐに風呂へ向かう。風呂は本館にあるいう。新館と本館は、道路の下を横切る地下道でつながっていた。男はタオルを持つと、本館へ向かった。
地下道を進むと、壁に一枚の絵があった。ちょうど通路の真ん中あたりだ。そこには入り母屋造りの日本建築が描かれていた。よく見ると看板もある。どうやら、この旅館のようだ。入り口付近で番頭らしい人物が、客を迎えていた。
風呂からあがり、地下道を通って新館の自分の部屋へ向かう。通路の真ん中あたりで、また絵を見た。そのとき男は、奇妙なことに気がついた。絵が変わっているのだ。さきほどの旅館の外観ではなく、今度は風呂の絵になっていた。それは確かに、今しがた男が入っていた風呂だった。湯船には、一人の男が大の字になって浸かっている。さっきの男の姿そっくりだった。
夕食は、結構なご馳走だった。五合ほどの酒を飲んだ男は、いい気分になった。しばらくして、また風呂へいく。酔い冷ましだ。
地下道を歩く。途中、また絵に目がいく。やはり変わっていた。今度は、客室の絵だ。一人の男客が酒を飲んでいる。机の上には結構なご馳走が並んでいる。男は立ち止まった。
どうやらこれは、旅館のサービスらしい。自分の行動が絵になり、それが通路に飾られているなんて、面白いじゃないか。ただし、何枚もの絵を用意しなくてはならないから大変だが。
二度目の風呂からあがったとき、本館で番頭を見つけた。絵のことを聞く。しかし番頭は、首をかしげるばかりだ。しらばっくれているようにも見えない。釈然としないまま、男は地下道を通って新館へ向かう。また、絵が変わっていた。額の中では、番頭が首をかしげていた。
部屋へ戻り、テレビを見る。つまらないので、帳場へ電話をし、酒を頼む。しばらくすると、女将が盆を持ってやってきた。
「お客さん」女将が、男にお酌をしながら言う。「番頭に聞いたんですが、地下道の絵を見られたとか」
「ああ、あの話ね。なかなか凝った趣向じゃないか」
「いえお客さん、私どもは絵を替えたりなどしておりません。なにかの間違いでは?」
「そんなはずはないよ。僕はこの目で見たんだからね。それも一度だけじゃないんだ」
男の反論に女将は詰まる。どう返答したらいのか困っているようだ。それでも女将は、意を決したかのように、こう言った。
「実は私には娘がいたのです。東京で絵の勉強をしていました。去年なくなったのですが」
「ほう、それはかわいそうに」
「娘は主人の絵をかくのが好きだったのです」
「失礼だが、ご主人は?」
「おととし亡くなりました」
「……」
「娘の死と、お客さんが見られた絵が関係あるかどうかは分かりません。でも私には、無関係とは思えなくて……。申し訳ありません。こんなことを初めてのお客様に申し上げて」
「そんなことはいいんだが……。そうか、そうだったのか」
男は女将に同情した。若くして死んだ娘が、母を慕っていたずらする。なんだか切ない話だ。
「女将、一杯やらないか?」
夫と娘に先立たれながらも、健気に旅館を切り盛りする女将。男は少なからず感動していた。
「いえ、私などがお客様とご一緒するなんて」
「女将のご主人や娘さんの話を聞きたくなった。さあ、一杯」
男が杯を差し出す。女将は断るが、再三の申し出に、とうとう杯を受け取る。互いの杯が進む。料理が追加される。そして男は、また女将に杯を勧める。こうして夜はふけていった。
深夜。飲みつぶれた男は、眠り込んでしまった。女将は布団を敷き、男を寝かせて部屋を出る。地下道を通って本館へ戻ろうとしたとき、通路の真ん中の絵を見た。そこには、男と女将が楽しく語り合っている様子が描かれていた。と、そのとき、声がした。
「母さん、ねえ母さんってば」
「えっ? だれ? だれなの?」女将が驚く。
「私よ。母さんの娘の由・美」
「由美、由美なのね」
「そうよ。私、死んじゃったけど、今日だけ母さんと話すことができるの。クリスマスだもんね。で、どうだった? 私のプレゼント」
「なんのこと?」
「あの人、死んだ父さんにそっくりじゃない。一晩だけ、母さんに楽しい思い出を作ってもらおうと思って」
「じゃあ、この絵を替えたのは、あなただったの?」
「そうよ。母さん、楽しそうだった。私、なんだか安心したわ。じゃあね。もう行かなきゃ」
「由美、由美。待っておくれ。本当に由美なのかい……」
もう声は聞こえなかった。女将は目の前の絵を壁からはずす。胸に抱くと、涙を流した。そしてもう一度、小さな声で言った。「由美……」
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