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ショートショット!
素敵な悪魔
井上 由

 バーのカウンターには数人の客がいた。まるで電線に群がるスズメのように、互いにぺちゃくちゃと話をしている。

 なかに一組のアベック。親しそうだが、まだ恋人同士という雰囲気はない。

 カウンターの中のバーテンダーは、純白の布でグラスを磨きながら、二人の会話を聞くともなしに聞いている。

「酒の中には、たいがい悪魔が住んでいるっていう話、聞いたことある?」

「なあに、それ。本当に?」

「本当さ」

 二十代後半の男が、グラスを傾ける。8オンスのタンブラーの縁には、何やら白いものが付いている。男の飲み物はソルティドッグらしい。

「その話が本当なら、私たち、お酒の悪魔を飲んじゃってるってことになるんじゃない」

 女が言う。やはり8オンスのタンブラーに、オレンジ色の液体が入っている。口当たりのよいスクリュードライバーが、女の好みのようだ。

「そうさ、だからいろんなことが起こるんだ。ね、バーテンダーさん」

 男から話を振られたバーテンダーは、少しも慌てることなく静かにほほえんだ。それを見て男が女に言う。

「だろう? この話、酒の世界じゃ当たり前のことなんだぜ。だから、乾杯をするんだ。グラスを合わせてカチンといわせると、その音で悪魔が逃げていくんだよ」

「本当? 信じられない」

「本当だってば。じゃあ証拠を見せてやるよ。ついこの間、こんなことがあったんだぜ」

 男はソルティドッグをもう一口飲み込むと、話を始めた。

「ほら、この前、中学の同窓会があったって言っただろ、そこでさ――」

 男の話はこうだ。同窓会で久しぶりにあった旧友の中に、乾杯で杯を合わせない奴がいた。こいつは、おとなしくていい奴なんだが、変にこだわる奴で、たとえ乾杯といえども他人の杯に自分の杯をぶつけるなどという不作法は許しがたいという。で結局、この男だけ乾杯をしなかった。でも酒は飲んだ。

 しばらくすると、男の表情がおかしくなった。そして急に、訳の分からないことを言い出した。「俺は、△△家二十三代目当主だ」と言い、辺りをじろじろ見だした。みんな訳が分からず、ざわつく。そのうち男は、一人の女性を捕まえると、さっさと外へ出てしまった。その女性は、中学時代にあのこだわり野郎が憎からず思っていたと噂されていた人だった。二人ともまだ独身だ。

 二人が出ていってしまったあと、別の男が独り言のように言った。こいつはめっぽう歴史に強く、日本史オタクと言われていた奴だ。

「△△家の二十三代目当主ってもしかしたら、好きな女のために自分の地位も名誉も捨てたっていう、あの人か……」

「それ、本当の話? 信じられない」

 スクリュードライバーの女は冗談を聞くような顔で男を見ている。

「本当さ。僕がその場にいたんだから間違いないさ」

「でも、その人が好きな女の人をさらっていったとしても、それがお酒の悪魔のせいだとは限らないじゃない?」

「いや、あれは間違いなく、酒の悪魔の仕業さ」

「自信あるのね」

 女の言葉を聞きながら、男は表情を変えていった。真剣な面持ちになり、ゆっくりと体の向きを変える。そして女と向き合い、その手を取ると、静かに立ち上がった。女は、何が何だか分からず、されるがままにしている。やがて男は、女の手を取ったまま、カウンターから離れた。もちろん女もそれに従う。女の左手をしっかり握る男。二人はそのままドアへ向かい、バーをあとにした。

 ほとんど中身のなくなった二つのグラスを、バーテンダーが音もなく片付ける。ソルティドッグのグラスに付いた塩は、男が口を付けたところだけなくなっている。

 グラスを持ちながら、バーテンダーが言った。

「今日もまた乾杯をしないお客さんが一組……。悪魔も気の利いたことをするもんだ」

copyright : Yuu Inoue(Masaru Inagaki) ffユニオン11号(1992.9月号)掲載

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