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コラム
火事そして無恐怖症
稲垣 優

 お昼少し前、家の裏で火事があった。火事とはいっても、たき火の大きなものという感じだった。正月15日の「どんど焼き」くらいの規模だった気がする。

 初めは「ああ、燃えてるな」くらいの意識しかなかったのだが、周りが慌てているのを見ているうちに「もしかしたら大変なことなのかもしれない」と、改めて認識した。

 家の裏窓から見たとき、火はそれほど大きくなかった。それでも2mくらいは上がっていただろうか。「ちょっと大きいたき火だなあ」とは思ったものの、恐怖心はなかった。そのとき家の外で、近所の奥さんたちの大きな声が響いた。

「119番したほうがいいよ」

「ああ、もうあんなに大きくなってる」

「怖いわ!」

 裏窓から見た火のことであることは、とっさに理解できた。私はつっかけを引っかけると、玄関から外へ出た。先日、女房が彼女用に買ったばかりの赤い「健康サンダル」だ。イボイボが足の裏に食い込み、少々痛い。サイズが小さいから、自ずとつま先立ちになる。いっそう一点に体重が集中する形になり、足の痛さはひとしおだった。

 表へ出ると、隣の奥さんが、コードレスフォンの子機で消防署へ電話をしているところだった。お向かいのおばあちゃんは、おろおろしながら見ている。私を含めた三人は、うちの車庫のあたりから裏を見た。火災現場は、30mほど離れた場所。そこは、ある会社の駐車場になっているのだが、ときどき誰かが空きドラム缶の中で何かを燃やしていた。今日の火事は、その火が回りに広がったものらしい。

「わあ、黒い煙が出てきた」お向かいのおばあちゃんが目を見張る。

 しかし私は、30m先の火だし、私の家との間には、ほとんど何も植わっていない畑があるだけなので、延焼の心配はないと、たかをくくっていた。しかしおばあちゃんの洞察力は鋭い。

「あの駐車場って、ボンベが置いてあったわよね。もし爆発したら……。怖いわ。私、心臓がドキドキしてきた」

 そう言いながらも、おばあちゃんは、どんどん火に近づいていく。とはいえ畑の中へ入るまではいかないから、きっちり30mの距離はおいているのだが。

 私は「ほんとに何かのボンベがあるのなら、こんなところで野次馬してる場合じゃないんじゃないか?」と思いながら、物置に半身を隠して、見続けていた。

 消防車がやってきた。お隣の奥さんが電話して2分とたたないうちに、遠くでサイレンが聞こえた。サイレンが最も大きくなったとき、つまり現場へ消防車が着いたのは、それから3、4分後だった。サイレンの音はよく通るのだ。だから遠くからでもよく聞こえる。

 次々とやってくる消防車。お隣の奥さんの電話で、現場が某社の駐車場だと分かっていたからか、梯子車のようなものは見あたらない。代わりに水をたっぷり積んでいるであろうタンク車が二台到着した。一般のバキュームカーの二倍ほどありそうな大きさだ。

 消火活動が始まると、火はすぐにおさまった。お向かいのおばあちゃんが、もっとも興奮していたときは、火は5、6mの高さにまで上がっていた。火もとの近くにあったフォークリフトは火だるまになり、木材の燃えるパチパチという音が響き、ビニールシートが燃えたから出たのであろう黒煙が、もうもうと立ち上っていたのだが、さして水をかけたわけでもないのに、あっという間に鎮火してしまった。ま、一度消えかかった火が、ぶりかえしたこともあったが、それもすぐにおさまった。

 うちの裏で、一部始終を見ていたお向かいのおばあちゃんは、火が見えなくなると、落ち着きを取り戻した。そのころ、出かけていた女房が帰ってきた。女房は言った。

「なんだか今日は、いつもより元気よく燃えてるなと思ったら、大変なことになってたんですね」

 それにこたえて、おばあちゃん。

「そうだよお。わたしゃあ、心臓がドキドキして。あそこにはボンベがあるでしょう。それにクルマも置いてあるしねえ。火が移ったらどうしようかと思ってねえ」

 女房は、全く動揺していなかった。それは彼女が気丈だからではない。ちょっとしたパニックに弱く、すぐに「どうしよう」を連発する彼女は、気が弱いことはあっても、気丈であるはずはない。だったら火災に対する彼女の冷静な反応は、なんだったのか。実際に、大きな火を見ていないから、恐怖がなかったのか――。それは違う気がする。私は火が大きくなるところも、そこから鎮火するところも、すべて見ていたが、やはり女房同様「今日のたき火は、でかいなあ」ぐらいの意識しかなかった。初めのうちは「ほうっておいても消えるかもしれない」くらいに思っていたが、さすがに火が大きくなると「このままじゃまずいよな」と思えてきた。そのころにはすでに、お隣の奥さんが119番していたわけで、あとは消防車の到着を待つばかりだったから、それほど心配はなかった。たぶん女房がその場にいても、私と同じような感覚を持っていただろう。

 私たち夫婦と、ご近所さんの感覚は、どうしてこうも違ったのだろうか。もちろん、現実の問題としては、たとえ火がそれほど大きくなくても、ほうっておいていいわけではなく、なるべく早く消防署に連絡すべきだと思う。そういう意味では、お隣の奥さんの判断は正しかった。もちろん私だって、だれも連絡していなかったら、119番しただろう。でも、どうしてご近所さんのように恐怖心を持たなかったのだろうか。

 恐怖に対して、鈍感になっているのだろうか。自分が死ぬかもしれない、周囲の人が死ぬかもしれないということが、とてつもない恐怖に感じられなくなっているのだろうか。それとも「これくらいなら大丈夫」と、自分なりに判断し、火と自宅の距離、そして、延焼しそうもないと判断できる状態を見ているから、恐怖心が起きなかったのであろうか。

 じつのところ、鎮火して何時間もたっても、このことは不思議な感覚として自分の中に残っている。どうして怖くなかったのか。単に「対岸の火事」ではなかったはずだ。それこそ可燃物の入ったボンベなりドラム缶なりが置かれていれば、大惨事になったことも考えられる。なのにどうして……。

 平和に慣れすぎてしまったのだろうか。あるいは、そうした大惨事は、映画などで見過ぎており、実際に起きたとしても、あたかもスクリーンで見るように客観視できると思っているのだろうか。

 お向かいのおばあちゃんが、あれほどの恐怖心を表に出したのは、本当の恐怖を知っているからかもしれない。年齢的に見て、たぶん第二次世界大戦を経験している。もしかしたら、人がたくさん死ぬのを目の前で見た経験を持っているのかもしれない。もしかしたら、家が焼け落ちるのを、目の前で見ているのかもしれない。そういう状況で、何がどうなっていくのかを体で知っていると思っても間違いないだろう。

 私たち戦後生まれの人間は、そういう経験がない。テレビや映画でしか見たことがない。だから実感がない。揚げ句の果てに、燃え上がる炎を見ても恐怖心が出てこない。

 無恐怖症は、現代人の多くが罹っているものかもしれない。実際に自分がケガをしたり、家が燃えたりしないと実感できない。恐怖する対象がなくなり、ただ日々の忙しさに追われているだけ。それが現代人だとしたら、かなり危ない気がする。

 その昔、幽霊が出る場所があると聞けば、人はそこを忌み嫌った。間違っても、おもしろ半分に行こうとは思わなかっただろう。しかし今は違う。幽霊スポットは、まるで観光地のように扱われている。それは、人が本当の恐怖を知らないからではないだろうか。

 じゃあ、本当の恐怖とはいったい何か。ホラー小説の第一人者スティーブン・キングは、人の死を最大の恐怖として扱っているといわれる。「死」こそが、人を恐怖に陥れる最大のものという考えは、確かに納得できる。しかしそれさえも、小説、映画の中のこととして、多くの人々が片づけていないだろうか。恐怖は、ただのエンターテイメントとして生き残り、生身の自分に押し寄せる、身の毛もよだつという感覚は、単に映像の視覚的効果によるだけのものになってしまったとしたら……。

 火を見ながら「怖い」と感じなかった自分を、もう一度、振り返ってみたくなった。本物の恐怖は、もしかしたら、ごく身近に転がっているのかもしれない。

copyright : Masaru Inagaki(1998.7.13)

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